チベット情勢論評
2009年今年の3月10日は、1959年3月10日にチベットの首都ラサで起こったチベット蜂起からちょうど50周年にあたります。毎年3月10日は、チベット蜂起記念日(チベット民族蜂起記念日としてチベット民族の心に刻まれてきました。その50周年にあたる日がまもなくやってきます。
1959年3月1日、当時24歳だったダライ・ラマ14世のもとに、ラサ郊外にある人民解放軍司令部で観劇をしないかという珍しい誘いが届いた。 ゲシェ・ラランバの学位をとるために勉強中だったダライ・ラマ14世は、当初その会合を延期したが、最終的には3月10日に日付が設定された。将校たちは、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を連れて行かないこと、そしてダライ・ラマ14世が宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求した。
3月9日になると、ダライ・ラマ14世のボディガードの代表のところに、人民解放軍陸軍の将校たちがやってきた。将校たちは、伝統からは外れるがダライ・ラマ14世が観劇の際に従来の武装警備隊を連れて行かないこと、そしてダライ・ラマ14世が宮殿から駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求した。この招待の言葉はラサにいるチベット人たちにも伝わり、中国がダライ・ラマ14世の誘拐をたくらんでいるのではという彼らの恐怖心に火がついた。3月10日にはダライ・ラマ14世が宮殿を出る、もしくは連れ出されることを防ごうと、約30万人のチベット人が宮殿を取り囲んだ。人民解放軍と市外のゲリラとの間では前年の12月にも小ぜり合いがあったものの、一般にはこの事件がラサ蜂起の始まりとされている。
3月12日になると、ラサの街頭に集まった抗議者たちがチベットの独立を宣言した。ラサの通りにはバリケードが築かれ、人民解放軍およびチベット軍は衝突に備えてラサ内外の拠点を要塞化し始めた。市外の武装反乱軍に対する支持の嘆願も始められ、インドの領事に対しても支援の訴えが行われた。以後数日間、人民解放軍とチベット軍は拠点を求めて移動を続けたが、その間ずっと人民解放軍の大砲はダライ・ラマ14世の夏期用の離宮であるノルブリンカを射程に収めていた。3月15日になると、ダライ・ラマ14世のラサ市からの避難準備が始まり、ラサ市からの避難経路を確保するためにチベット軍が派遣された。3月17日には、ダライ・ラマ14世の宮殿の近くに2発の砲弾が着弾し、これが彼の亡命行の引き金を引くことになった。ノルブリンカやラサの主な僧院に対する砲撃を含むあからさまな衝突は3月19日の夜に始まった。チベット軍は著しく数に劣り武装も貧弱だったため、この戦闘は2日しか続かなかった・・・。