中国との対話中断の真相

特使の派遣を中断する

2008年11月22日、チベット特別大会議は、「高度な自治」の実現を中国との」対話によって目指すという「中道路線」は維持するものの、現在の対話に対する中国側の態度には不満として、中国側の歩み寄りがないかぎり、(チベット側からの)特使の派遣を中断する、という提案を採択した。

チベット特別大会議

08年10月16日、ダライ・ラマ法王は、チベットの民衆に対して、「この6年間の畏怖との中国政府との対話に失望した。私はこの対話について素直に失敗を認めなくてはならない」と発言し、物議を醸した。チベット亡命政府と中国政府との間で正式対話が始まって6年経つが、確かに表面的に見れば、対話は後退の一途を辿ってきた。たとえば、中国政府が、「政府の要人が外国に行ったときに、海外に住むチベット人がデモを起こさないように注意してほしい」と言えば、亡命政府はそのまま「デモを自粛するように」という通達を出すような状況にある。また、これは法王が指示したことではないが、「独立」という言葉をデモのスローガンとして使わないように自粛までしている。このような事態に対して、チベット国内外の青年層を中心に、「これまで中国の言いなりだ。中国だけがこの対話路線で有利になっている」とかなり批判がある。こういった状況の中で、11月17日から22日まで、インドのダラムサラにおいてチベット人による特別大会議を開き、中国との対話路線を継続すべきかどうかについて、議論することになった。具体的には、幾つかの文科会を開き、それぞれの参加者に意見を十分述べてもらう。そして議会と内閣がこの会議の結末をふまえて、法王のご意見もうかがい、具体的にチベットは今後どう動くかを決めることになるだろう。この特別大会議開催の前に、法王は、「会議の前にみんなと会って話をしたくはない」とおっしゃていた。自分が何かを話せば、みんなの意見を左右させてしまうから、というのが理由だ。1987年のヨーロッパ議会における談話で、法王は「チベット問題の最終的決定者はチベット国民だ」としているが、今回の会議の目的はまさに、国民の総意を確かめたい、ということだった。もっと具体的に湯ならば、「独立」でえはなくて、「高度な自治」を目指すことに対する指示を確認したかったのだろう。

 「独立」と「自治」

チベットが現在、「自治」を主張している経緯を確認しよう。そもそも1980年代まで、「自治」という言葉はなかった。あくまでもチベットの人たちは、中国からの「独立」を求めて闘争していた。変化が起きたのは87年のことである。法王がアメリカ議会、そしちぇヨーロッパ議会、そしてヨーロッパ議会で、「自分は独立を求める代わりに、チベットを非武装地帯化する。そして、不干渉地帯(当時は「聖域」という言葉を使った)にする」と発言し、それから「自治」を目指すことになった。法王は、インドと中国の間に非武装地帯ができれば、アジアの平和にも貢献すると考えていた。世界で最も人ロの多いインドと中国。二国とも貧しい国でありながら国家予算のほとんどを軍事費に使わなければならない状況を、チベットの動きによって.変えることができるはずだ。そして、それは、チベットのみならずアジア全体の平和にも賓献できる、というのが法王の考えだった。
 
もう一つ、チベットが『独立」を。主張できなくなった経緯も確認しておこう。1979年、「独立さえ主張しなければ、そのほかのことについては何でも話しあう余地があるしと、鄧小平が、ダライ・ラマ法王の兄を通じて、法王に提案をもちかけてきた。おそらく鄧小平は、当時自分が「毛沢東路線の追随者としての失脚」「文化大革命での失脚」に次ぐ「第一次天安門事件での失脚」から復活した直後だったために、自分の政治的姿勢を整えるために時間稼ぎがしたかったのだろう。そして、当時は、中国とソ連の関係も極めて悪かったので、ソ連がチベットに介入してくることを完全に排除しておく必要があったのではないかと思う。こうして、チベット亡命政府と中国との問に、非公式の対話が再開したのだが、このやり取りのおかげで、チベット社会では「独立」という言葉がタブー視されるようになった。現在では、法王は中国に対して誠意を示すために、公の場で「独立を放棄する」といった発言をわざわざしなければならない状態になっている。ただ、今回の特別大会議後、法王が「私は文革時代の1974年頃から、現実の問題として、『独立』とは別の道があるはずだと考えていた」とおっしやったことも押さえておきたい。

 どこまでが「チベット」なのか

東京の記者会見でも、法王が指摘したが、中国政府は最近、「チベットとはチベット自治区のことだけを指す」と主張している。この発言は中国が強硬姿勢を取ってきている証拠にもなる。これまでの対話の延長線上にあったものではない。実際、鄧小平との非公式対話を再開したときに想定していた「チベットの領土」とは、決してチベット自治区に限定されたものではなかった。四川省や法王のお生まれになった青海省もチベットの領土であることを前提として、チベットの実態調査団が視察を行っていた。いわゆる「大チベット」である。しかし、交渉が進むにつれて、中国は「自治区だけがチベットだ」と主張するようになった。中国人からすれば、『領土の四分の一も取られるなんてとんでもない」ということだろう。それにチペット自治区だけならばその半分以上は砂漠で、人間の生活できる土地は多くない。しかし「大チベット』となると人口の多い農牧地を含むことになる。中国政府としてはこの豊かな土地を手放したくないのだ。

 一方のチベット人は、もちろんチベットの領土とは、「大チベット」のことだ、と考えている。法王自身も先に述べた東京の記者会見で、「人の頭と足を切ってしまえば、それは人間とは言えなくなる。しかし、中国がチベットに対して主張しているのは、頭と足を切っても人は人だろうと言っているのと同じことだ。その理屈をどうしても推し進めるなら、自分は中国人であってチベット人ではなくなる」とおっしやった。この問題は非常に難しい。領土問題も特別大会議での主要な議題となった。

オバマ政権誕生の影響-武力闘争は不可能なのか

国際情勢にも目を配る必要がある。たとえば、私は、オバマ政権が誕生したことで、チベットと中国との政治的対決姿勢は弱まる一方で、人権問題に関してはさらなる支援が得られると考えている。弁護士出身で、クリントン元大統領の特別顧問を務めたグレッグ・クレイグは、初代のチベット問題特別調整官(担当大使)だが、オバマの法律担当の大統領顧問になった。彼のようにながらくチベット問題に付き合ってきた人が政権の中枢にいることで、今までの対話路線に対しては、より積極的な支援が得られるだろう。反対に、今までの路線から脱却することに支持を得るのは難しいと予想できる。アメリカに限らず、ヨーロッパについても同じことが言える。たとえ法王が、十二月四日に開かれるヨーロッバ議会で、対話路線を打ち切り、「独立」を主張したとしても、ヨーロッパ諸国はチベットの味方にはならないだろう。もしゲリラ闘争など暴力をともなった過激な運動を起こせば、武力闘争で独立をしたインドですら支援をしなくなると思われる。1970年代の、いわゆるチベットゲリラが活動していた頃と今とでは、状況が全然違う。当時は、まずアメリカが協力してくれたし、インドと中国も国境紛争以来の非常に冷え込んだ関係にあった。また中国そのものが、今のように道路も整備できておらず、今日ほどチベットを掌握していなかった。インドが芙国から独立する過程を見ると、平和路線のガンジーがいた一方で、急進派のスバス・チャンドラ・ポースがいた。そのことから、チベットにも急進的な活動があってもいいではないか、という声がある。実際、チベットにも、強硬派とされる青年会議派もいるし、作家のジャムヤン・ノルブや、インド当局に二度逮捕されている独立運動家のテンジン・ツォンドユのような人はいる。しかし、チャンドラ・ホースに対しては、日本やドイツからの応援を期待できる国際情勢だったが、今はそうではない。

民族自決はおおいに叫んでいいと思う。しかし、それは平和的に、国際社会の承認の下に発生する、という構図しかありえないのではないか。残念ながら、国際的な状況を冷静に考えると、チベットの運命を最終的に決めるのは、中国の内部状況と、インド、アメリカ、ョーロッパ、ロシアの思惑である。

そして会議は開かれた

このような背景を受けて、特別大会議は関かれた。中国との今後の交渉方針を中心に、領土認識の確認、法王の後継者問題なども話し合われた。結論に影響する発言を避けたいということで、法王は会議に出席せず、内閣総理大臣も挨拶のみで議論には参加しなかった。ほとんどの議題は満場一致で採択されたが、今後の交渉方針については多数決で決まった。こうして、冒頭で述べたように、今後も対話路線そのものは維持するが、中国が「ダライ・ラマは交渉相手としてふさわしくない」「チベットの領土は自治区だけである」などとする態度を改めないかぎり、交渉は中断することになった。中断の期限を決めるべきだという意見も出たが、結局、具体的な期限は決めないことになった。また、法王は全国民の唯一の代弁者であって、チベットは一つであることも確認された。あくまでも譲れないものは譲れないということがはっきりした。後継者については、法王の意向を尊重することになった。さらには、これまでの世界中の支援者へ感謝すると同時に、国連やEU、大小のNGOやNPO、そして中国国民などに一層の支援を求めていくことも決まった。法王は会議の翌日、我々が交渉すべき相手は二つある、一つは中国政府で、もう一つは中国国民だ、とおっしやった。鄧小平も江沢民も今はもういない。もちろん胡錦濤の時代にも終わりがある。今の中国政府が誠意のない回答をしていても、いつかは変わる。しかし国民はずっと変わらない。中国国民対チベット民族で争うのではなくて、中国の中にもチベットの対話路線に対する理解者を増やすように、と強調された。

会議全体としては、法王の提唱していた民主主義がチベットに根づいていることを内外にボせたのではないか。互いに意見が違っても、相手の意見をよく聞き、そして自分の意見を述べる、という健全な議論ができることが分かった。中国政府は、「我々がチベットを解放した」と言っているが、真の意昧での解放を法王が成し遂げていることを確認できた。これは誇れることだと思う。この会議の結論に対して、「玉虫色で鮮明さが足りない」という人もいるかもしれない。しかし私は、調和を重んじる仏教文化に則した決議文ができたと思う。

ダライ・ラマ引退の可能性とチベットの今後

今回の会議では、「対話路線」は継続されることになった、しかし、今後も対話路線を続けていくことがベストなのか、対話路線を続けることが可能なのか、は分からない。法王は、オリンヒック前の大騒動でお疲れになったのか、「2000年以後、チベット政府には国民の中から選ばれた総理大臣もいるし、立派な議会もある。だから自分はシニアアドバイザーとして助言はするけれども、今後は政治の第‘線からは退く」とも発言した。もし法王が引退するようなことがあれば、対話路線の前提が大きく崩れることになる。鄧小平との対話以後、インドに人ってきたチベット人のことを『新米」と呼ふ。この入たちが、今、人口の3割近くになった。それから、1959年のチベット蜂起以後に生まれた人たちが、約6割になる。彼らは観念的にはもう中国とは対話しても意味がないと思っている。そして、「法王がこれだけ世界中から受け人れられているのは、チベット独立への支援とイコールである」と思っている節もある。   

今度の会議に出席した人たちは、ある程度、世界の状況についてもきちんと把握している人たちだが、青年や新米の人たちが政治の中心を担うとなるとかなり変わってくるだろう。四川大地震で中断したが、三月以降のチベットの抗議活動では、その兆候が見られた。将来的に、彼らは農牧民としてパルチザン化していくかもしれない。法王がご長寿で108歳まで生きられることを願いながらも、世代交代は避けられない。世代交代が本当に起きたとき、大きな変化が訪れるかもしれない。そうなればもう対話路線など望むぺくもない。中国政府も、今のダライ・ラマ法王が元気なうちにチベット問題をある程度解決しておかなければ大変なことになると気づくべきだ。

新華社通信の報道などを見ていると、今回、法王か中道路線を切り替えるかもしれないと匂わせたことで、中国側の態度も硬化した。かなり強く「独立も偽装独立も認めない」としている。ところが、法王も中国も「次の対話」を前提にしているような感じがした。おそらく法王も中国側も、強硬な発言は、それぞれ国内に向けたものとして受け止めることもできる。対話そのものの後退は望んでいないのかもしれない。チベットでは、2000年にも「独立」と「中迫』のどちらを取るかという議論があったが、国民の大多数は「独立を望むが、法王の意思には従う』という結論だった。中道というのは、中国の一部にはならない、しかし独立でもない、その真ん中を取って、「真の自治」を今後の目標にしようということだ。今回もいわば「チベット人の知市げとして、「中国を信用しない。独立を望む。だけど.最終的には法王にお任せする」となるのではないかと予想していた。そしてその通りになった、しかし、今回の会議で、法王の指導のもと民主主義が定着し、国民が屯役となれることが確認された。チベットは、新しい時代に足を踏み入れつつある。 (中央公論09年1月号から転載)

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